
はじめに
介護業界では深刻な人材不足を背景に、職員の転職や独立開業が活発化しています。その中で事業所経営者・管理者の頭を悩ませているのが、退職した元職員が担当していた利用者に対して転職先や新規開業した事業所への移行を勧誘する「引き抜き」行為です。
特にケアマネジャー(介護支援専門員)など利用者との関係性が強い職種においては、この問題が顕著に現れます。利用者との人的信頼関係が強い介護サービスでは、「○○さんがいるから」という理由でサービスを選ぶ利用者も多く、この特性が引き抜きを容易にする一方、事業所としては対策が難しい側面があります。このトラブルであなたの事業所は、売上の○割と利用者様の信頼を失うかもしれません。この意味で、引き抜き対策の策定は待ったなしです。
本記事では、こうした引き抜きトラブルの法的な位置づけを整理した上で、経営者・管理者が取るべき予防策と発生時の対応策を実務的な観点から解説します。なお、法的な判断は個別事案により異なるため、具体的なトラブルが発生した際は専門家への相談をお勧めします。
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引き抜き行為の法的評価
職業選択の自由と営業の自由
まず前提として理解しておくべきは、憲法第22条で職業選択の自由が保障されており、退職後にどこで働くか、独立開業するかは個人の自由であるということです。また、営業活動として顧客を獲得することも原則として自由競争の範囲内とされています。
したがって、元職員が利用者に「新しい事業所でもお世話させてください」と声をかける行為が、それだけで直ちに違法となるわけではありません。複数の裁判例においても、「個人の転職の自由は尊重されるべきであるという見地から、(引き抜き行為は)直ちに不法行為を構成するとはいえない」との判断が示されています。
違法となりうる3つの法的根拠
ただし、以下の場合には法的責任を追及できる可能性があります。
(1)競業避止義務違反
就業規則や退職時の誓約書で競業行為を禁止しており、その内容が合理的な範囲である場合、競業避止義務違反として損害賠償請求が可能です。ただし、裁判所は労働者の職業選択の自由を重視する傾向にあり、競業避止義務の有効性は厳格に判断されます。
有効と認められるためには、以下の要素が考慮されます。
- 守るべき正当な利益の存在:顧客情報、ノウハウ、人的関係など
- 従業員の地位:機密情報にアクセスできる立場であったか
- 禁止期間の合理性:1〜2年程度が目安
- 地域的制限の合理性:事業展開地域に応じた限定
- 代償措置の有無:退職金の加算、手当の支給など
(2)不正競争防止法違反
元職員が利用者情報(利用者名簿、連絡先、ケア内容など)を不正に持ち出して利用した場合、不正競争防止法上の「営業秘密侵害」に該当する可能性があります。営業秘密として認められるためには、秘密管理性、有用性、非公知性の3要件を満たす必要があります。
特に問題となるのが「秘密管理性」です。利用者情報に「秘密」「Confidential」等の表示がなく、誰でもアクセスできる状態であれば、営業秘密としての保護を受けられない可能性があります。
(3)不法行為(民法709条)
競業避止義務の合意がない場合や、営業秘密の要件を満たさない場合であっても、引き抜き行為が「社会的相当性を著しく逸脱した態様」で行われた場合には、不法行為として損害賠償請求が認められる可能性があります。要は、一般的な感覚として「やりすぎ」はダメということです。
違法性の判断においては、以下の要素が総合的に考慮されます。
- 引き抜いた利用者の人数・規模
- 引き抜き対象者の事業所における重要性
- 引き抜きが事業所に及ぼした影響の大きさ
- 勧誘の方法・態様(秘密性、計画性、虚偽説明の有無など)
- 代替要員の確保困難性
在職中と退職後の違い
在職中の場合
労働契約法第3条4項に基づく「誠実義務」を負っており、会社の正当な利益を侵害してはならない義務があります。在職中に利用者を他社へ誘導する行為は、この誠実義務に違反し、損害賠償請求や懲戒処分の対象となりえます。
退職後の場合
原則として誠実義務を負わないため、競業避止の特約がない限り、引き抜き行為は原則として違法ではありません。ただし、「社会的相当性を著しく欠く」態様であれば、不法行為として責任を追及できる可能性があります。
トラブルを未然に防ぐ体制づくり
就業規則・誓約書の整備
入社時からの段階的な取得
誓約書は退職時だけでなく、入社時、昇進時(管理者就任時など)、特定プロジェクト参画時など、複数のタイミングで取得することが効果的です。退職時に誓約書への署名を求めても、従業員側にメリットが乏しいため拒否されるケースが少なくありません。
競業避止条項の有効性を高めるポイント
競業避止義務を定める場合、以下の点に留意して条項を設計します:
- 期間の限定:退職後1年程度が標準的。2年を超えると無効と判断されるリスクが高まる
- 地域の限定:事業所の所在地周辺など、合理的な範囲に限定
- 対象業務の限定:「在職中に担当した利用者に対する勧誘行為」など具体的に限定
- 代償措置の実施:退職金の加算、特別手当の支給など。例えば「退職後1年間、競業を行わない代わりに、毎月○万円の手当を支給する」といった措置のことです。
もっとも、競業避止義務条項の有効性を判断するにあたっては、自己判断が難しいかと存じます。そんなときは、弁護士に相談するのがよいですね。
情報管理体制の構築
利用者情報を不正競争防止法上の「営業秘密」として保護を受けるためには、秘密管理性を確保する必要があります。具体的措置として:
- アクセス制限:利用者情報へのアクセス権限を必要な職員に限定
- 秘密表示:利用者ファイル、データベースに「秘密」「Confidential」等の表示
- 物理的管理:紙媒体は施錠可能な保管庫で管理
- 退職時の情報回収:社用携帯、PC、USBメモリ等に保存されたデータの削除確認
が考えられます。
もっとも、上記の対策をきっちりとるというのは負担感があり、無理、という場合もあるかと存じます。そんなときは、「これを徹底すべき」として「利用者情報ファイルへのパスワード設定と秘密表示の徹底」を心がけるだけでも情報管理体制は大幅に改善します。
組織体制の工夫
特定の職員に利用者対応を集中させると、その職員が退職した際に利用者が一緒に移行してしまうリスクが高まります。
- チームケア体制の構築:複数の職員で利用者を担当し、特定の職員への依存を防ぐ
- 担当者ローテーション:定期的に担当者を変更し、「この人でなければ」という状況を作らない
- 事業所としての関係構築:担当者個人ではなく、事業所全体として利用者・家族との信頼関係を築く
最も根本的な予防策:職員が定着する職場づくり
ここまで法的・制度的な予防策を解説してきましたが、最も根本的かつ効果的な予防策は、職員が「この事業所で働き続けたい」と思える職場環境を整備することです。職員が満足して働いていれば、そもそも退職や独立開業のリスクが低下し、引き抜きトラブル自体が発生しにくくなります。
介護労働安定センターの調査によれば、介護職員の離職理由として「職場の人間関係」「法人・事業所の理念や運営への不満」「収入が少ない」などが上位を占めています。これらの課題に対応するための具体的な施策を以下に示します。
(1)定期的な1on1ミーティングの実施
管理者と職員が定期的(月1回程度)に1対1で面談する機会を設けます。業務上の課題だけでなく、キャリアの希望、職場環境への要望、プライベートでの悩みなども含めて対話することで、職員の不満や離職の兆候を早期に把握できます。重要なのは「評価面談」ではなく「対話の場」として位置づけ、職員が本音を話しやすい雰囲気を作ることです。
(2)キャリアパスの明確化
「この事業所で働き続けると、どのようなキャリアを築けるのか」を明確に示すことが重要です。具体的には、等級制度・役職体系の整備、各等級に求められるスキル・経験の明示、昇進・昇格の基準の透明化などを行います。特にケアマネジャーなど専門職については、主任ケアマネへのステップアップや管理者への登用など、将来像を具体的に示すことで、長期的なコミットメントを引き出せます。
(3)処遇改善と評価制度の整備
介護職員処遇改善加算を最大限活用し、給与水準の向上を図ります。また、成果や貢献を適正に評価し、賞与や昇給に反映する仕組みを整備します。評価基準を明確にし、フィードバックを丁寧に行うことで、職員のモチベーション向上と納得感のある処遇を実現できます。
(4)働きやすい環境の整備
長時間労働の是正、有給休暇の取得促進、育児・介護との両立支援など、ワークライフバランスを重視した職場環境を整備します。
具体的な施策として、
- ICT導入による記録業務の効率化
- シフトの柔軟な調整(時短勤務、曜日固定など)
- 休憩スペースの確保など職場環境の物理的改善
- メンタルヘルス対策(相談窓口の設置、ストレスチェックの活用)
(5)研修・スキルアップ機会の提供
外部研修への参加支援、資格取得費用の補助、社内勉強会の開催など、職員の成長を支援する機会を積極的に提供します。学び続けられる環境があることは、向上心のある職員にとって大きな魅力となります。
(6)理念の共有とチームビルディング
事業所の理念やビジョンを繰り返し共有し、「何のために働くのか」という目的意識を醸成します。また、チームとしての一体感を高めるために、定期的なミーティング、レクリエーション、成功事例の共有などを通じて、職場の人間関係を良好に保つ取り組みを行います。
【ポイント】これらの施策は、引き抜き対策としてだけでなく、サービス品質の向上、採用力の強化、組織の持続的成長にもつながります。「守り」の対策と「攻め」の人材戦略を両輪で進めることが、結果として最も効果的な引き抜き予防となります。
発生時の対応策
事実確認と証拠収集
引き抜き行為が疑われる場合、まず冷静に事実関係を把握することが重要です。
確認すべき事項:
- いつ、誰が、どのような方法で勧誘を行ったか
- 勧誘を受けた利用者・家族の範囲
- 実際に移行した利用者の人数
- 利用者情報の持ち出しの有無
- 事業所への影響(売上減少、人員基準への影響など)
元職員への対応
事実確認の結果、違法な引き抜き行為が行われていると判断される場合、まず警告書(内容証明郵便)を送付することが考えられます。警告書を送付しても改善が見られない場合、または既に重大な損害が発生している場合には、損害賠償請求や差止請求などの法的措置を検討します。
利用者への対応
介護保険制度上、利用者にはサービス事業所の選択権があります。利用者が自らの意思で他の事業所に移行することを選んだ場合、それを妨げることはできません。利用者の意思を尊重しつつ、自事業所のサービスの価値を改めて伝える機会と捉えましょう。
- 後任担当者を速やかに紹介し、引き継ぎを丁寧に行う
- 担当者が変わってもサービス品質が落ちないことを示す
- 執拗な引き留めは避け、誠実な対応を心がける
行政への対応
利用者の移行により人員基準を満たせなくなる恐れがある場合や、管理者が退職して後任が確保できない場合などは、速やかに市町村や都道府県に報告し、対応を協議する必要があります。
実務チェックリスト
予防段階(平時の備え)
就業規則・誓約書の整備
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 競業避止義務条項を就業規則に規定しているか | ☐ |
| 2 | 秘密保持義務条項を就業規則に規定しているか | ☐ |
| 3 | 入社時に秘密保持・競業避止に関する誓約書を取得しているか | ☐ |
| 4 | 管理者・主任級への昇進時に誓約書を更新しているか | ☐ |
| 5 | 誓約書の内容は法的に有効な範囲に限定されているか | ☐ |
| 6 | 代償措置(退職金加算等)を検討しているか | ☐ |
情報管理体制
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 利用者情報へのアクセス権限を限定しているか | ☐ |
| 2 | 利用者ファイル・データに秘密表示をしているか | ☐ |
| 3 | 退職時の情報回収手順を定めているか | ☐ |
| 4 | 個人端末への業務情報転送を禁止しているか | ☐ |
組織体制
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 特定職員への利用者対応の集中を避けているか | ☐ |
| 2 | 引き継ぎシートの標準フォーマットを用意しているか | ☐ |
| 3 | 日常的な記録整備ができているか | ☐ |
職場環境整備(定着促進)
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 定期的な1on1ミーティングを実施しているか | ☐ |
| 2 | キャリアパス・等級制度を明確化しているか | ☐ |
| 3 | 処遇改善加算を最大限活用しているか | ☐ |
| 4 | 公正な評価制度を整備・運用しているか | ☐ |
| 5 | 研修・資格取得支援制度を設けているか | ☐ |
| 6 | ワークライフバランスに配慮した勤務体制か | ☐ |
発生段階(トラブル対応)
初動対応
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 事実関係を客観的に確認したか | ☐ |
| 2 | 証拠(聞き取り記録、データ等)を収集・保存したか | ☐ |
| 3 | 専門家(弁護士)への相談を行ったか | ☐ |
元職員への対応
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 警告書の送付を検討したか | ☐ |
| 2 | 法的措置の必要性を判断したか | ☐ |
利用者への対応
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 後任担当者を速やかに紹介したか | ☐ |
| 2 | サービス品質の維持に努めているか | ☐ |
| 3 | 利用者の意思を尊重しているか | ☐ |
行政への対応
| No. | チェック項目 | 確認 |
| 1 | 人員基準への影響を確認したか | ☐ |
| 2 | 必要に応じて行政に報告・相談したか | ☐ |
おわりに
介護業界における元職員の利用者引き抜きは、法的にグレーゾーンな部分が多く、完全に防ぐことは困難です。しかし、平時からの適切な予防策と、発生時の迅速な対応体制を整えておくことで、被害を最小限に抑えることができます。
本記事で解説した対策のポイントをまとめると、以下のとおりです:
- 法的な枠組みの理解:引き抜き行為は原則として合法だが、態様によっては違法となりうる
- 制度的な予防策:誓約書の整備、情報管理体制の構築、組織体制の工夫
- 発生時の冷静な対応:事実確認と証拠収集を優先し、感情的な対応を避ける
- 専門家との連携:就業規則・誓約書の整備段階から弁護士や社労士の助言を受ける
- 最も根本的な予防策:職員が定着する職場づくり(1on1、キャリアパス、処遇改善など)
顧問弁護士の活用をお勧めします
引き抜きトラブルへの対応は、予防段階から発生時の対応まで、法的な専門知識が求められる場面が多くあります。就業規則や誓約書の条項が法的に有効かどうかの判断、情報管理体制が不正競争防止法上の要件を満たしているかの確認、トラブル発生時の警告書作成や交渉など、いずれも専門家の助言なしに適切に対応することは困難です。
こうした場面で力を発揮するのが、顧問弁護士との継続的な関係です。顧問契約を結んでおくことで、以下のようなメリットが得られます:
- 日常的な相談が可能:「これは問題になりそうか」といった小さな疑問も気軽に相談でき、トラブルの芽を早期に摘むことができます
- 事業所の実情を理解した助言:継続的な関係を通じて事業所の状況を把握しているため、より実態に即した的確なアドバイスが受けられます
- 緊急時の迅速な対応:トラブル発生時に一から弁護士を探す必要がなく、すぐに対応を依頼できます
- 予防法務の充実:就業規則の整備、誓約書のリーガルチェック、研修の実施など、トラブルを未然に防ぐ体制づくりを継続的にサポートしてもらえます
- コストの予測可能性:月額固定の顧問料で相談できるため、法務コストの見通しが立てやすくなります
特に介護業界に精通した弁護士であれば、業界特有の規制や慣行を踏まえた実践的なアドバイスが期待できます。「トラブルが起きてから弁護士を探す」のではなく、「トラブルを起こさないために弁護士と連携する」という発想の転換が、事業所を守る大きな力となります。
介護事業所にとって、利用者との信頼関係は最も大切な資産です。そしてその資産を支えているのは、日々現場で働く職員です。引き抜き対策という「守り」の施策と、職員が生き生きと働ける職場づくりという「攻め」の施策を両輪で進めることが、持続可能な事業運営につながります。
本記事が、介護事業所の経営者・管理者の皆様にとって、引き抜きトラブルへの対策を検討する際の一助となれば幸いです。
リブラ法律事務所では、日々、介護事業者の皆様の相談に乗っています。お気軽にご相談下さい。
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Last Updated on 1月 20, 2026 by kigyo-lybralaw
事務所に所属する弁護士は、地元大分県で豊富な経験で様々な案件に取り組んでいたプロフェッショナルです。ノウハウを最大限に活かし、地域の企業から、起業・会社設立段階でのスタートアップ企業、中堅企業まであらゆる方に対して、総合的なコンサルティングサービスを提供致します。弁護士は敷居が高い、と思われがちですが、決してそのようなことはありません。私たちは常に「人間同士のつながり」を大切に、仕事をさせて頂きます。個人の方もお気軽にご相談下さい。 |



